新着情報 講演番号第44

講演番号44 輝ける熊SOU族・熊襲 その3講師 内倉武久

熊襲族はチベット族共通の「犬祖伝説」を持ち、稲荷信仰、能など 芸術分野でも日本文化の基を築いていた。蛮族のイメージは長年押さ えつけられていた大和政権が恨みを込めて作ったものである。

新着情報 講演番号第43

講演番号43 シリーズ福永晋三と往く新説日本書紀11

神武天皇紀編纂の意図、すなわち日本書紀のイデオロギー(思想傾向)を説明した回。饒速日尊の建国した倭奴国(天神王朝)を神武(実は天孫系)が正当に継承したとのプロパガンダ(宣伝)が表われているとした。試みに物部氏の系譜をまとめ、天皇家の系譜と並べた。2代綏靖天皇が物部氏の母と神武天皇の間の子であり、彼が東征を戦い抜いて即位した二代手研耳命大王(山鹿の吾平津姫が母)を暗殺した。その結果、神武天皇の統一は早くも崩れ、後漢書に云う倭国大乱に繋がった。併せて、神武の即位から手研耳命の暗殺に至るまでの年代を、干支の暦(日本書紀の儀鳳暦)を調査し、再逆算して日本古代史の実年代を算出したことを始めて説明した。
福永晋三

新着情報 講演番号第42

講演番号42 輝ける熊SOU族・熊襲 その2 講師 内倉武久

熊曾於族には鴨(加茂)族を筆頭に太田、内(宇智、宇治)、三嶋園、袁氏、牛氏など多彩で強力な氏族で構成され、大陸で習得していた鉄製作技術と馬を使って全国を席巻していた。

内倉武久

新着情報 講演番号第41

講演番号41 シリーズ福永晋三と往く新説日本書紀1

新型コロナに翻弄されながらもようやく10回を迎えました。年末ということもあり、神武崩御まで話をさせてもらいました。
 国見丘(赤村岩石山)で八十梟帥を討った神武は、馬見物部氏の末裔の駒主命に迎えられ、帝王山(擂鉢山)を越えて嘉麻の地に入った。日本書紀から削られたと思われる筑豊(主に田川郡・嘉穂郡・鞍手郡)の神社伝承を追いながら、日本書紀の記述を増やして神武第二次東征を復元した。今回は特に、嘉穂郡に神武東征に由来する地名の多いことを取り上げ、嘉穂郡の立岩遺跡を囲む古遠賀湾の海で、「熊野の海戦」があったことを力説した。また、京都郡に伊勢津彦という賊がおり、神武は田川郡の春日神社にいた天日別命を派遣し、伊勢津彦を東の地に追いやった。伊勢津彦らの辿り着いた地こそ、今日の三重県の伊勢であった。筑豊の神社伝承は日本書紀の隠した歴史事実を復元する力を秘めた貴重な伝承であることを再び力説した。

福永晋三

新着情報 講演番号第40

講演番号40 卑弥呼!あなたは一体誰なの? 講師 鶴田裕一

皆さんもよくご存知の卑弥呼(ひみこ)。どんな人か知っていますか。どこにいたのでしょう。今回は、卑弥呼について考えていきます。この名前は、日本の記録には全くなく、中国の史書、三国志魏書に記されています。このことから、実はいなかったのではないか、神功皇后だったのではないか、別な人物が女王になりすましたのではないかとか、いろいろなことが言われています。日本の史書、注釈書、中国の史書等を元に考えていきます。皆さんも一緒に、この謎に包まれた歴史上の人物について考えていきましょう。さあ、卑弥呼は実在したのでしょうか?、どこにいたのでしょうか?。真実に少しでも近づきたいと思います。鶴田裕一

新着情報 講演番号第39

講演番号39 「輝ける熊sou族・熊襲」その1 講師 内倉武久

中国大陸からのボートピープルの連合体である熊曾於族は自ら「輝ける曾於族」と名乗り、南九州を拠点に勢力を伸ばした。彼らの墳墓である地下式横穴墓などの祖型が大陸にある。

新着情報 講演番号第38

講演番号38 シリーズ福永晋三と往く新説日本書紀09

射手引神社社伝抄録を介して、第一次東征と第二次東征に分かった後の、第二次東征に入った。まず宝満山から菊鹿盆地に帰り、九州を横断、日向の美々津港を出港する。速吸之門(速吸日女神社)で珍彦に海路の案内を頼み、菟狹の一柱騰宮(安心院妻垣神社)に入る。次に、英彦山及び求菩提山の頭八咫烏一族と同盟し、吉野の国栖部らを巡撫する。続いて、英彦山を下り、菟田の穿邑(川崎町)に入り兄猾を伐つ。さらに、菟田の高倉山(金国山)に登り、敵情を視察。天香山の埴を取り、「八十平瓮を以ちて水無しに飴(たがね)を造る」、菟田川の朝原で神武自身が高皇産靈尊の現身となり、顕齋いを為した。十二月、国見丘(赤村岩石山)に赤銅の八十梟帥を破る。
 以上を安心院や筑豊の神社伝承を引用しながら日本書紀と表裏一体の古代史を論じた。貴重な史料を用いている。神武東征に関する必見の回である。福永晋三

新着情報 講演番号第37

講演番号37 シリーズ福永晋三と往く新説日本書紀08

いよいよ、鞍手郡誌に遺された射手引神社社伝抄録を通して、日本書紀が隠した神武東征の本質「神武は筑豊に東征した」に至る経過を初めて発表した。その場所が現在の射手引神社、運命の奇遇を感じる。 日本書紀の神武東征は一次の失敗と二次の成功譚を混合し、ウマシマデ命の瀬戸内海東遷を加えた改竄だったと分析した。射手引神社社伝抄録がなければ、永遠に解けない謎となるところだった。筑豊の古伝承のすごさがここにある。

新着情報 講演番号第36

講演番号36 シリーズ福永晋三と往く新説日本書紀07

いよいよ、日本書紀の神武天皇紀の冒頭、神武東征謀議について、通説(江戸時代から令和の今日までの神武東征コース)の解釈と併せて概説をまず話した。続いて、再び神武東征謀議を福永説の立場から語った。その後、教室の皆さんと質疑応答。この中に数々の古代史へのアプローチの仕方が認められる。
 次回は、とうとう「神武は筑豊に東征した」の福永説の根拠となった射手引神社社伝について語ることとなる。

新着情報 講演番号第34

講演番号34 シリーズ福永晋三と往く新説日本書紀06

神代最終章。日本書紀では、神武天皇からが人皇の時代で、父のウガヤフキアエズ尊は神代に分けられている。詳細を言えば、神武45歳の東征謀議からが神武即位前紀となる。

 第6回は、神武の創建した邪馬台国(倭国)の前王朝すなわち(漢)倭奴国を取り上げた。中国史書(主に范曄後漢書韓伝・倭国伝)に基づき、日本書紀の記述を精査すると、景行天皇紀の肥前国征討譚の部分が父のウガヤフキアエズ尊と十代後半の磐余彦との佐賀平野攻略戦という史実を述べてあり、吉野ケ里遺跡等との関係が浮かび上がる。「新説・日本書紀」の立場から神武天皇15歳~45歳を神代最終章に分別した。